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「今は世界が半分になっちゃった」養老孟司さんに聞く、もう半分の世界のこと

Yahoo! JAPAN SDGs編集部

山

Gyoppy!編集部から「養老孟司さんにインタビューしませんか」と連絡をいただくまで、正直なところ私は、環境問題についてほとんど真剣に考えたことがありませんでした。

私は普段、京都で執筆活動をしているのですが、畑を耕したこともなければ山に登ったこともほぼなく、海に遊びに行くのも年に一度あるかどうか。生活の大半を街の中(というか家の中)で過ごしています。少ない知識や情報から「自然破壊が大変なことになっているらしい」となんとなく知っているものの、自然との距離が遠いので、どうも自分ごととして危機感を覚えられずにいました。

そんなとき、養老さんの本の中で、この一節に行き当たったのです。

「都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的に形にしたものが都市です。自然はその反対側に位置しています」(『超バカの壁』より

養老さんの定義にならうと、自然とは「脳で考えたものを具体的に形にしたもの」以外のものということになります。人間が意識的につくったものではないもの、それが自然であると。

であれば、私自身も自然であるということ。これを読んでいるあなたもまた、自然であるということです。

さらに養老さんはこう言います。

「(都市に住む人が自然を排除しようとするのは)感覚を通して世界を受け入れないからです。意味を持った情報を通して世界を理解するんですね。だから意味のないもの、分からないものを徹底排除しようとするんですよ。自然に意味なんてないからね。都市の中の公園は、完全に意味を持った人工物です」(『世間とズレちゃうのはしょうがない』より

これを読んだとき、「まさに自分はこの状態だな」と感じました。

都市に住む私は、ほとんど誰かの「脳で考えた」「意味を持った」人工物に浸りきった日々を送っています。それが快適なので、わざわざ海や山に行こうと思わない。ただ、「このままでいいのかな」という気持ちはなんとなくありました。その違和感が、養老さんによって言語化されたような気持ちになりました。

養老さんの定義では私自身も自然物のはずですが、どんどん自分自身が都市化され、自分の中から「意味のないもの」がなくなりつつある気がする。つまり、「自分の中での自然破壊」が起こっている......そのことに対する違和感なのだとわかったのです。

このとき、違和感が危機感に変わりました。自然破壊を、初めて自分ごととして感じられた気がしました。それは、自分もまた「自然」の一部であること、そしてそれを失いつつあることに気づいたからなのだと思います。

都市化した私たちは、どうしたら自分の中に感覚としての「自然」を取り戻せるのか。

そんなことを、いち当事者として養老さんにうかがいたいと思いました。その答えは、どうしたら海や山や川で起こっている環境問題を自分ごととして捉えられるかにも、つながってくるかもしれません。


養老孟司(ようろうたけし)さん

養老孟司(ようろうたけし)

1937年、鎌倉生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし、2003年のベストセラー第1位。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『身体の文学史』『手入れという思想』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』など著書多数。

「一次産業」がなくなると、「情報化」がなくなる?

── 養老さんの本を読んで、「自分という『自然』がどんどん壊れていっているのではないかな」と危機感を覚えました。それで今日はぜひ、「どうしたら自分の体に感覚としての『自然』を取り戻せるのか」ということを聞かせていただけたらと思っているのですが......。

それはそう簡単な話じゃないですよね。結局、世界全体がそうなってきているわけで、ひとりでじたばたしても仕方ない。だから僕は、国全体で「参勤交代制度」を取り入れたらいいんじゃないかって提案しているんです。「一定期間は都会で過ごして、一定期間は田舎に行く」って決めちゃうんですよ。

でも今はコロナになって、そういうことが自然と出てきていますよね。これまでずっと東京は流入超過だったけど、今は出る人の方が多くなった。それぞれがひとりでに、よりバランスがとれるほうに動いているんだと思います。

── たしかに、コロナは自分の生活を考え直すきっかけになったと思います。そんな折、私もちょうど養老さんの本を読んでいて、自然に触れたいなと強く思うようになりました。それでうちの子どもにも「ゲームばかりしてないで外に虫取りにでも行きなさい!」みたいな話をしたんですけど「どうして家で遊んじゃいけないの」って言われてしまって......。

それは無理ですよ(笑)。だって、そう子どもが感じるように大人が世界を作ってしまったんだから。それをさかさまにするのは難しいですよね。

── そうですよね。これまでそう育ててきたのに、突然すぎました。

なぜ僕が子どもの頃から自然に触れることを勧めるかっていうと、そうでない世界はいくらでもあるからなんですよ。だから子どものうちからコンピューターのことを学ばせようっていうのは余計なお世話なんです。人間関係の付き合いだってそう。大人になってからいやでも学ぶんですから、子どものうちからやらせる必要はないんです

養老孟司さんのZoom画像
取材はZoomにて行った

── たしかに、大人になったらいやでもやることを、前倒しして教えようとしているように思います。私自身も。

たとえば海にしても、本当に今は距離が遠くなりましたね。僕らが子どもの頃は帝国海軍があったからか「海の国日本」って言われていて、当時の秀才は海軍兵学校に行っていたんですよね。今で言う、東大医学部みたいなもんで、エリートが行くところだったんです。

僕の記憶でも、子どもの頃の遊びでは磯遊びがいちばん楽しかった。生き物がたくさんいてね。生物多様性なんて、磯で遊んでいればいやってほどわかるんですよ。信じられないような生き物がいますから。

── 海がずいぶん身近だったんですね。

そう。でも、時代とともに世の中の海に対する価値観ががらっと変わった。本当に人の生活から海がなくなりましたね。今、海で子どもを遊ばせたりしないでしょう。

海の画像

── うちは全然ですね......。でも、どうして海に対する価値観が変わっていったんでしょう?

ひとつは、全体的な自然離れだと思います。それは一次産業従事者の数を統計で見たらよくわかりますよ。1950年段階では半分くらいいたのに、どんどん減って今ひとけた台でしょう。非常に強い情報化社会になっていったんですね。

── はい、はい。

でも、僕は「情報化」という言葉をちょっと違う意味で使っています。僕の言う「情報化」は、五感から入ってきたものを情報に変えて人に伝える、ということです。たとえば自分の目で見たものを、文章として表現することなんかそうですね。

昔、丸谷才一の『文章読本』で読んだことがあるんですが、井伏鱒二が、ちゃぶ台で雀が遊んでいる情景を2ページくらいに渡って書いていたんだそうです。でもいま、大人でそこまで書ける人っているでしょうか?

そういうふうに、感覚から入ってくるものを言葉に変える、現物から情報にする。それを僕は「情報化」と呼んでいるんですね。だから一次産業がなくなるのと、「情報化」がなくなるのは、ほとんど同じことなんです。

── 五感で自然に触れることがなくなったから、「情報化」もなくなったという。

そう。僕がやっている虫取りも、典型的な「情報化」です。虫の標本を見て、名前をつける。名前のついていない新種は、まだ情報化されていないからね。

一方で、今みなさんがやっているのは「情報処理」なんですよ。すでに情報になったものをどう扱うか、ということをしている。

── たしかに、触れるのはすべて人の意図や意思が入ったものばかりです。それは「情報化社会」というより「情報処理社会」なんですね。

「情報処理」業になったさきがけは医者の世界ですね。患者じゃなくてカルテを見ている。すると医者は、AIに置き換えられるからいらなくなるんですよ。

子どもにそういうことをやらせる必要はありません。だってどうせ情報処理はAIがやってくれるんだから。一番難しいのは、現物を情報化していくことなんです。

海も畑も田んぼも、将来の自分

海の画像

── いま養老さんのお話を聞きながら、なぜ自分が危機感を覚えているのか言語化されたような気がしました。私は「情報化ができなくなっている」という自覚があるんです。井伏鱒二のように、なんでもない光景をきっと2ページも書けない。なぜかというと、自然から離れて感覚の入力が衰えているから。

見てるようで、見てないんですよね。たとえば海に行くとよくわかるけど、海って非常に強いんですよ。入ってくるものがものすごく多い。海岸に出て2,3時間経つとお腹が減ります。相当なエネルギーを使っているんですね。

── それこそ五感からの入力がものすごく多いのでしょうね。今、その機会がぐっと減っているように思います。

うん、そうですね。

── たとえば海を例に挙げるなら、私は海と「魚を食べる」ことでしか五感でつながれていないなと思うのですが、本マグロやウナギなど絶滅危惧種の魚が増えることで、またひとつ自然を入力する感覚がなくなっていくのではないかなと思っているんです。

それはあると思う。あのね、僕はよく言うんだけど、「自分」ってものを若い人は問題にするじゃないですか。でも、「自分」って最初どんなものだったのかというと、直径0.2ミリの受精卵なんですよ。それが50キロ、60キロの大人になる。「その50キロ、あんたどこから持ってきたの?」って言うと、田んぼ、畑、海でしょう。外からとってきたものを食べて、自分ができている。だから、田んぼも海も将来の自分なんですよ。米や魚を食べると自分になる。若い人はそれに気づかずに、田んぼや海は自分とちがう独立したものだと思ってる。

── ああ、たしかにその通りですね。田んぼや海、つまり「環境」イコール「将来の自分」であると。じゃあ、たとえば海にプラスチックが流出している事実は......。

そう、人ごとみたいになっているけど、それは自分の問題なんです。だから子どものときから親しませておく。五感から自然を入れて、自分のこととして受け止められる準備をさせておくんです。

意識は身体が気に入らない

東京タワーとビルの写真

── ちなみに、養老さんが「人は自然の中に身を置くべきだ」と考え始めたのはいつごろからなんですか?

それはもう、僕が生きている間じゅうその距離がどんどん離れていっていましたから。しみじみ感じるんですね。まあ、最初のきっかけはトイレですよ。

── えっ、トイレ?

日本中のトイレがすっかり水洗になったでしょう。赤痢が多かったとか衛生的な理由が大きいんでしょうが、理由っていうのは基本的に後付けですから。最初は感覚でしょうね。僕、何かで読んだことがありますよ。「臭いがどうしても耐えられない」っていう文章。まあ、身体性ですよね。

── 自分の体から出たものを、見たり嗅いだりするのが耐えられなくなったという。

これがおもしろくてね。子どもの質問で、「唾は口にあるときには汚くないのに、口の外に出るとどうして汚いの」っていうのがあったんですよ。これは、自分の身体をえこひいきしているわけですよね。だから一旦外にでると、えこひいきの分だけマイナスがつくんです。それが水洗トイレの根本の動機だろうと。だってお腹の中に抱えている分には、誰も汚いって言わないじゃないですか。でも外に出すと耐えられないって言うわけ。そういう身体性っていうのはかなり深いところに入っているから、子どもの頃から慣らさないと難しいですね。

── 今のお話は自分にも心当たりがあります。「外」を「世間」だと捉えると、たとえば「整形したい」とか「ムダ毛をなくしたい」とか、自分の顔や体を人為的に変えたいという欲求もそこから生まれているのかもしれないと思いました。「自分」という自然物を否定して、いかに世間に受け入れられやすくするかが促進されているような。

その始まりは、服ですね。社会が脳化されていない自然状態で過ごす人は、服を着ないんですよ。自分の身体と自然を同じものと見なしているから。でもそこから独立したとたんに服を着るんですね。服の中は自然だから、それを出すのは野蛮なんです。

たとえば戦前は、裸で労働する人がたくさんいました。危険だとか怪我をするからとかいろんな理由をつけて、戦後それをやめさせたんですね。でも、夏の暑いときに服を着ているほうがよほど危険でしょう。要するにこれもあとづけ、裸は見たくないってことなんです。身体性が抑圧されているんですね。

歴史的にもそうで、都市化すると身体は必ず下に置かれるんです。だから、都市では直接身体を扱う職業は賎民がやるものだった。典型的なのがヨーロッパでの医者の世界で、内科はドクターで、外科はミスターなのは、そういう歴史があったから。産婆、ペディキュア(外反母趾や魚の目を専門に治療する人)、そういう人はみんな賎民でした。僕は解剖医だから、賤民がやっていたことをやっていた。身体を直接に扱う人は身分が低かったんです。

僕は女性差別の根本にもそれがあるだろうと思っています。月経、妊娠、出産と、女性は身体性が露呈してしまう。それは都市的な社会では下に見られるんです。身体性が目立つこと自体が、都市的じゃないから。

東京の交差点写真

── だから都市化とともに、身体を含む「自然」からどんどんと離れていった。

そう。要するに、頭の中で暮らすようになったんですね。すると、意識は身体が気に入らないんですよ。自分のほうがえらいと思っているのに、必ず身体に復讐されるから。

だって、朝目が覚めるのもひとりでに覚めるのであって、意識的に覚めてるわけじゃないでしょう。意識的に覚めようとすると、目覚まし時計をかけないといけない。意識は自分が出てくることも引っ込むこともコントロールできないのに、起きてる間はコントロールしていると思っている、そこがそもそも間違いなんです。

たとえばコップで水を飲むときも、意識は飲みたいから飲んだと思っている。でも脳を測定すると、手のほうがコップへ向かって先に動き出して、0.5秒くらい経ってから「水が飲みたい」という意識が発生しているんです。だからさっき「理屈はあと追い」と言いましたが、根本的にそうなんですよ。でも意識が動かしていると思ったほうが有効に動けるので、誤解しているだけで。それが文明化であり進歩だと言っているんですね。

東京の交差点写真

自然に触れることは、世界を広げること

── 都市がそういった意識化・脳化社会だとすると、養老さんの提唱する「参勤交代」では、半分はその外に身を置くということなんですね。

僕は「対人対物」と言っているんですが、どっちにもほどほど時間をかけるのがいいと思う。人と人との関係では絶対にうまくいかない部分が出てくるから、対人だけだと不幸になるんですよ。だから逃げ場がないといけない。たとえばいじめなんか、僕の子どもの頃にもあったけれど、山や川や海など人がいない逃げ場がありましたからね。でも、今は世界が半分になっちゃった。人間の世界だけになったから、いじめが厳しいんです。

いじめが人間の世界のマイナス面だとすると、もちろんプラス面もある。同様に自然の世界にもプラス面とマイナス面があります。今日みたいに気持ちいい天気の日もあれば、昨日みたいに台風みたいな日もあって、地震、噴火、津波なんかもあるわけでしょう。自然って別にいいもんじゃないんですよ。じゃあどう定義すればいいかというと「中立」なんですね。

今、「自然がいい」と思われているのは、自然じゃないほうに社会が寄りすぎているから。単にバランスの問題です。

森の写真

── 自然は中立。たしかに、いい面ばかりではないですもんね。

でも実際、子どもたちにとっては自然に触れさせるのはいいと思う。友達関係が悪いときには、海でも山でも行けばいいんですよ。そこでは人間社会のものさしは通用しませんから。自然に触れさせるのは、世界を広げてやるっていう意味を持つんです。

── それは、大人にとっても必要なことですよね。世界を広げる。

うん。その人が現実をどう捉えているかは、自分がどういうことに時間をとっているかに影響されると思いますよ。脳が浸っている時間が長いものほど現実化するんです。だから、テレビばかり観ている人はテレビが現実になるし、お金ばかり扱っている人はお金が現実になる。そのことばかり考えていると、現実もそうなるんですね。現実が、自分の脳みその大きさまで縮小してしまうんです。

── 自分イコール現実になってしまう、ということですか。

そうです、そうです。僕もよく患者さんに注意するんですよ。延々と自分のことばかり話して、さっきからあなた自分のことしか言ってないよと。現実の対象が自分でしかない。そうやって縮んじゃうから外へ行けっていうんですよ。そういう人には、「自分以外のものについてもっと話せるように変わっていったらどうですか」と。

── 外に出ることによって、現実を広げていく、という。

そうそう。感覚は外に向かって開いているんですから。音でも景色でも風でも、勝手に入ってくるんですよ。たとえば海をしばらく見てると、しみじみ思います。なんで波が動いているんだろうとか。これがずっと繰り返されているんだな、と思うとちょっと驚きますね。

だから、自分の外から来るものに、もうちょっと現実感を持たせたほうがいい。脳みそばっかりじゃなくてね。

田んぼの写真

── あの、私は以前から、どうも環境問題を自分ごととして捉えることができずにいたんです。なんとなくそのことに罪悪感があって、環境問題に関する知識や情報を得るのが大事なのかなと思っていたのですが、養老さんと話していて、実際に海に行くとか畑に触ってみるとか、感覚で自然を取り入れるのが一番近道なのかなと思いました。

そうですね。情報処理ばかりするのではなく、五感で自然を感じて、情報化するところへ戻ってほしいですね。

── 「環境問題」っていう地球規模の問題に対して、何したらいいのかなって無力感があったんですけど、まずは自分が情報化できる身体になることなのかなぁって。

私もそう思っています。みんなが変わらないことには、世界は変わらないですから。自分ひとりが何したところで全体に関係ないと思いがちだけど、一人ひとりがちゃんと感覚としてわかっていて、自動的にブレーキがかかるようになってないといけないですね。

── とても勉強になりました。ありがとうございました。

花の写真

半分になっちゃった世界

どうしたら自分の中に「自然」を取り戻せるのか。そんな問いから始まった、今回の養老さんへのインタビュー。

自然と都市、感覚と理屈、身体と意識。前者がどんどん駆逐され、後者が支配したこの世の中を、養老さんは「世界が半分になっちゃった」と表現していました。だから逃げ場がなく、世界が狭い。

「脳が浸っている時間が長いものほど現実化するんです」とも養老さんは話していましたが、私の現実はまさに「世界の半分」になっていたのだなと気がつきました。

そのもう半分を取り戻すには、知識や情報を頭で得るのではなく、自然の中に全身を置いて五感で感じること。都市化の中で駆逐されたものをフル稼働し、自分自身もまた自然なのであると再確認すること。

そうすることで初めて環境問題は自分ごと化し、自然破壊にブレーキをかけることができるようになる。それが一人ひとりにできるたしかなことなのだと、養老さんのお話から学びました。

自分の中に「自然」を取り戻すとは、もう半分の世界を取り戻すということ。 そのとき私たちの現実は、より大きくより豊かになっていくのではないでしょうか。

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